誇大妄想をするHSPの戯言

HSP/HSSである中年男性が妄想をひたすらに書きなぐる落書き場

前回の続き

 前回のブログで絶望はそんなんじゃない、とイキってブログを書いたような気がするけれど、そんなことは気にせず続きを書きます。

 

 そもそも絶望って何でしょうね。もっといえば真の絶望ってなんだろう? って個人的には思います。

 多額の借金を背負うことでしょうか? 人から批判されまくることでしょうか?

 理不尽なことが立て続けに起こることでしょうか? 大切な人を失うことでしょうか?

 それらがもし絶望と呼べるのならば、この世は絶望しかないんじゃないか? と思うくらいに全人類が憂鬱になっているかと思う。もし、仮にそのような世界になっているのであれば、「首吊り専用のロープ」が398円で売られている世界になっていると僕は思う。

 ただ自分が思うに、絶望とは「所詮、個の人間が抱いている思想の一つでしかない」と思うのです。

 物書きしている時に、消しゴムが机の上から落ちた時に「絶望」と感じることもできるし。外出している最中に大雨が降ってきてずぶ濡れになったことに「絶望」することも思考できるような気がします。

 結局のところ、人の捉え方で絶望なのか、そうでないのか、そう解釈できるものが個人的に「絶望」だと思うのです。

 「はぁ? 自分の愛する人を失った悲しみと、消しゴム如き一緒にするな!」と言われそうですが、何も同じとは言いません。前者の方が明らかに心理的なショックは大きいでしょうし、私生活に大きな損害を与えることは確かでしょう。

 ただ、絶望とは「大きい」とか「小さい」とか、そういった概念が無い気がするんです。個人的に。同時に「真」の絶望とか、「不変かつ、絶対的な絶望」もない気がします。それらを説明するには、まず個の感情じゃなく、人間という概念そのものを全て理解しないと解決できない問題だと思います。

 仮に、100歩譲って「真の絶望がある!」とすれば、それは圧倒的な希望の中に、ひっそりと存在する、なんとも不確で、愚かな、でも神々しいような、そういった矛盾の中に潜んでいるんじゃないかと私は思っています。

 どういった理由なのかと言われれば、何とも返答に困る質問になるのですが、

たかが、人間が思考できる、或いは理解できるほど「絶望」という概念は浅くないかと直感で、そう思うのです。23世紀くらいになれば、そういった概念の説明ができる人が居るかもしれませんが。

 

 前回ブログで取り上げた「鬱男の恋」についてなのですが、これも明らかに「絶望」しかないゲームです。

 そう、私が「違和感」を感じていたのは、この絶望しかない部分なんです。

 作者様は自分が感じている「絶望」や「救いようのない【自分の世界」を表現しているのですが、これはなんというか、絶望的であるけれど、絶望とは違う何かに感じるんです。

 上記で述べたように真の絶望が存在するのであれば、ひっそりと存在する、なんとも不確かで、愚かな、でも神々しいような、そういった矛盾の中に存在するものだと私個人としては思っています。

 なので、このゲームに出てくる鬱男はあまりにも「完璧すぎるくらいの絶望」を味わっていることに、僕は違和感を覚えます。

 何度も繰り返すようですが、圧倒的な、それこそ絶対的な絶望があったとしても、たかが人間が思考した、定義した「絶望」が本当の「絶望」なのか? ということに繋がります。

 一応、このゲームにヒロイン的な立ち位置の女の子がいますが、それはこの作者様にとっては「希望」の象徴であり、或いは「絶望をより感じやすくするための、一種のスパイス」でしかない物、なのかも知れません。

 最低なことをしているDQNも、罵声を浴びせるクラスメイトも、本質的には人間には変わらない。仮に主人公以外の人間が今「幸せ」と感じていようが、一日後、百日後、千日後、どうなっているかなんてわからない。見事無残な姿で息絶えているかも知れないし、あのDQNたちはどこかで救いようのない環境に死ぬまで居続けるかもしれない。

 いろんな「可能性」があると個人的に思います。この可能性があるゆえに、私は真の絶望も存在しないと思うのです。

 レイプされた女の子が、これからもずっとトラウマを抱えて生きて死ぬまで辛い思いをしないとダメなのか? といえば、それはNOでもあり、YESでもあると個人的には思います。それは鬱男も同じです、両親をなくし、結局のところ、自分は弱いままだと生き続けるのも、それはNOであり、YESでもあるのが「可能性」であり、「現実」であり、それが「人生」のような気がします。

 確かに、辛いトラウマを抱えていない人間は、トラウマを持っている人間よりも「幸せ」だと思うかもしれないですが、それはあくまで「現状」という時間の一部、鱗片を見ているに過ぎないと思うのです。

 何の苦労もせず、他人に対して非人道的なことを繰り返して満足感を得ている人間だろうが、辛い思いを経験していて生きるのも精一杯な人間だろうが、結局のところ、「人間」という存在でしかなく、死ぬときはあっさりと、或いは痛々しく地獄のような痛みを受けながら死んでいく生き物であると私は思います。

 よく辛い経験をした方が「得」とか「強い人間であるとか」そういった類のことを発言する大人がいますが、個人的にはそんなことはないと思います。

 辛い経験は「辛い経験」でしかないのです。そうではなく、その「経験を自分の中でどう解釈」するか? というのが重要でないのかと私は思います。

 虐待を受けた子どもが「他人よりも心が強い人間だ」という証明がどこにあるんでしょうか? 「他人よりも大人を疑心暗鬼になってしまった」という証明がどこにあるんでしょうか?

 所詮は、そのレッテルを張っているのは周りの大人か同じ年代の子であり、当の本人である人格を決定づけするような「信憑性のある、絶対的なもの」とは到底思えません。

 いじめを受けた、虐待をうけた、パワハラを受けた。

 確かにどれも辛いことで、誰だって経験はしたくありません。少なくとも私はそう思います。

 だけど、生きている以上、「痛み」を感じる必要があり、それらは決して避けられません。

 だからといって「過去のトラウマ=今の自分」と決定するのは、早計過ぎるというか、愚かな選択肢のような感覚になります。アインシュタインだって、そのようなことは思わないでしょう。多分。

 

 私、個人としては「痛み」は「痛み」でしかないと思います。

 痛み=今の自分のダメさ、とか。

 痛み=自分の不甲斐なさを実感するためのもの、とか。

 痛み=自分の無力の現れ、とか。

 そういった所謂「イコール」ではなく、今の自分は「今の自分」でしかないと思うのです。今の自分が生きている以上、可能性というのが少なからず存在しているものであり、その可能性を感じるがゆえに、人は無駄に絶望して、無駄に希望を感じるものだと――私は思います。

 

 めちゃくちゃ長文になりましたが、私は現実世界の「いじめ」に関することも、「鬱男の恋」の主人公である鬱男の絶望も、私は人間が生きていく中で避けられない感情の一部に過ぎないと思っています。

 仮に私が鬱男だったら、いじめているDQNの目玉に自分が持っていた傘を全体重をかけてねじ込んでやろうかという気になるだろうなぁと思うし、罵倒してくる女子に対してはそいつが着席している机の上でオ〇ニーして、ベタベタの机を完成させてやろうかと考えてしまう。……実際にやったら犯罪で非人道的ではありますが、彼らも彼らで、彼女らも彼女らですからね、正しいとか正しくないとかは私的には二の次――――と言いたいですが、これ以上はサイコパスな思想があることを露呈しているようで、書くのをやめます。仮に、自分の身に、このような現実が起こったら、「自分のダメさ、無力さ、さえも武器にして戦う」かと思います。その方が私的に「楽しい」と感じるからです。私の価値観の上位には必ず「自分が楽しい」と感じるか否かがあります。

 

 

 ともまぁ、我ながら酷い文章を書いたもんだと悪い意味で自画自賛しそうですが、最後に、現在進行形でいじめられている子に一言述べるとすれば、

 イジメている人間はそれほど強くないし、たかが人間である。

 イジメを受けている自分はそれほど弱くないし、たかが人間である。

 人間である以上、深く考えて行動できるし、同時にあっけないことで弱くなったり、死んでしまう生き物である。

 だから、決して自分をダメだと思いこまなくていい、だからこそ、なんでも良いからどんなに小さくてもいいから、「動いて」欲しい。

 私はそう心から思うし、辛い思いをしている子が少しでも、心が楽に、人生が楽に、なる方向に向いてほしいと思っています。