誇大妄想をするHSPの戯言

HSP/HSSである中年男性が妄想をひたすらに書きなぐる落書き場

適応性

 前回のブログで適応性が自分の資質であることに、意外性を感じていたのだけれど、よくよく考えてみれば、自分の人生はその場その場で対処して出来上がったものに近いような気がすると思い始めた。

 

 「適応性」の資質がある人は”決められた未来”とか”ギチギチに決められた計画”が苦手らしい。本当に自分もそう思う。というか、心当たりでしかない。

 何といえばいいか、決められたことをやるのは別に自分じゃなくて機械とかAIに任せればよくない? とか思っている。

 「単純作業が大嫌い」というわけじゃないけれど、それを永遠と出来るような精神力は持ち合わせていない。

 ローグライクゲームとか、そういったジャンルのゲームが好きなのは本当に分かり味が深い。「テラリア」とかも好きだったし、パズルゲーム系も好きだったりする。

 でも、だいたいは200時間ほどで飽きる。それほどやれば、Endコンテンツよろしく! あとは実績集めの単純作業になるから、当たり前といえば当たり前なんだけど。

 おすすめの職業に「ジャーナリズム」とか出てきたのが印象的だった。

 だけど、自分はそれほど「世間の動向」に興味はない……というか、それほど重要なことじゃないような気がしてならない。

 消費税どうのこうの、と言われても自分は政治家でもなければ、それらの日本社会における重要な役割を担っている人物ではないため、結果、どうなろうが「どうしようもない」に尽きる。※自分から積極的に選挙に行ったり、メディアを通して自分の政治的意見を述べることは可能だけれど。一、一般市民が変えられることは狭くそして限られていると個人的には思っている。

 

 重要なのは、そのあとどうするか? であると自分は思う。

 適応性の「起きてしまったことは仕方ない、という思考」がまさに今の自分に当てはまっているのかなぁと思う。

 例えば、大事な物を失った場合。それが高価であれ、安価であれ、失った結果に対する答えというか、最善の策を練ることの方がより生産的で効果的な気がする。

 失ったものを嘆いても、元には戻らないものが世の中には多いのだから。人でも、物でも。

 話を戻すと、消費税が上がって「くそぉ! 政治家が全て悪いんだ! 俺たちの税金を無駄に使いやがって!」とデモ行進して抗議するよりも、上がったことによって、負担が大きくなったけれど、「そこからどう立て直すか?」を考えた方がより有意義と感じてしまう。デモ行進とか抗議が全くの無意味なのか? と質問されたら、それは「NO」であるけれど、それはあくまで自分たちにこれから出来ること、の一部の選択肢でしかないし、本質的な部分ではないような気がする。重要なのは、今、自分が何ができるのか? と、これから何をすべきなのか? という事柄だと思う。

 

 とまぁ、自分でもつまらない記事になってしまったけれど、自分が持つ資質をフルに使って死ぬまでにある程度、社会貢献できればなぁと思ってる。日本国だけじゃなくて、世界規模で考えながら。

 

 余談ですが、今自分は地域若者サポステに通っているわけだけども、とりあえず一通りの活動内容や、感想を後日書きたいと思います。

 もし、これから社会復帰を考えている人や、引きこもってしまって「自分も世の中も闇しかない……」と考えている方に、ちょっとでもその事情を伝えられたなぁと思っています。でわでは。 

皆もストレングス・ファインダーを、やろう!(提案)

  最近、ネタが無いから書かないとブログで言っていたけれど、実は書くのがめんどくさいから書いていないだけだということに気づいたkagariです。

 

 昨日、「ストレングス・ファインダー 2.0」という本を購入しました。

 こんな感じの本 ↓

 

 買う直前までそれほどよく調べていなかったんだけど、この本は結構有名みたいですね。自己啓発みたいな本なのかな? と最初は思っていたけれど、そうではなく、きちんとした「自分の強みを見つけるための診断本」みたいなものでした。

 値段は2000円ほどと、ちょっとだけ高めの値段ではあるけれど、診断するためのシリアルコードが備わっており、そこからインターネットで専用サイトへ飛んで、診断開始! みたいな流れ。

 正直、こういった「自己診断」する本とか、ネットサイトとか信用していなかったんだけれど、この本を書いた故「ドナルド・O・クリフト氏」は人間の強みに関する心理学を研究し続けた方なので、スピリチュアルよりではなく、科学よりな、そしてより現実的な研究をしてきた末に出来た本であることが分かったので、自分は「はぇ^~」と思いながら、診断することにした。

 ちなみに、診断結果は全部で3300万パターン以上あるらしく、より正確な診断が出来るみたいです。

 

 で、診断結果が。このような形に。

 

 1. 最上志向  「影響力」

 2. 内省  「戦略的思考力」

 3. 収集心 「戦略的思考力」

 4. 適応性 「人間関係構築力」

 5. 学習欲 「戦略的思考力」
 

一応、1万円ほど追加で払えばもっと詳しいデータが出るらしいのだけれど、そもそも自分は「自分自身の強み」さえも全く分からない状態なので、これだけでも十分すぎるデータだと感じた。

 

 結果を見るに、「戦略的思考力」が偏っていて、「実行力」系統の素質がTOP5に入っていない。

(※資質には大まかに「実行力」「影響力」「人間関係構築力」「戦略的思考力」の4種類に分けられ、そこからまた何種類もの資質に分かれている。全資質は合計で34種類に及ぶ)

 もしかしたらTOP6~実行力系統の資質があるのかもしれないけれど、現時点では確かに実行力は自分にはあまり備わっていないような気がする。現にブログも「ネタとか考えるのは好きだけど、実行するのがおっくう(面倒)」と理由で、継続できていない気がするし。

 ここから少し細かく、掘り下げて見ていこうと思う。

 

 1. 最上志向 


 ――「最上志向」の資質が高い人は、個人や集団の卓越性を高める手段として、強みに注目します。優れたものを最高レベルのものに変えようとします。

 

・【優れたものを活かす】というのは確かにその通りだなぁと納得した。ビルゲイツに筋トレを強いてマッチョにさせることより、コンピューター関連の技術向上に向けて活動して頂いた方が、より意味のあるものだと個人的には思ってる。

 苦手なことを無理に強いるより、得意なものをどう生かすのか? という風な考えをもった方が苦手なことを克服させるよりも生産的なものだと思っている。


2. 内省 

 

 ――「内省」の資質が高い人は、知的な活動に多くの時間を費やします。内省的で、知的な議論が好きです。

 

・隙あらば、本当に色んなことを考えてる。


3. 収集心

 ――「収集心」の資質が高い人は、収集や蓄積を必要とします。その対象には、情報、アイデア、人工物だけでなく、人間関係も含まれる場合があります。

 

 ・この資質が表示された時、「いや、別にコレクションは趣味にしていないしなぁ」と思ったが、これはどうやら「情報」というものが含まれるらしい。ああ、……まぁ確かに、自分は気になったらすぐさま調べたり、それについての様々な情報を出来るだけ多く知りたいと思う。


4. 適応性

ーー「適応性」の資質が高い人は、流れに沿って進むことを好みます。「今」を大切にし、それぞれの時点で進む方向をひとつずつ選択することにより、将来を見極めます。

 

 ・これに関しては意外だった。だけど、起こったことに対する一種の「諦め」と、その後の展開についてどうするか? と考えるのが割と好きだったりする自分がいる。

 

5. 学習欲

--「学習欲」の資質が高い人は、学習意欲が旺盛で、常に向上を望んでいます。結果よりも学習すること自体に意義を見出します。 

 

 ・興味のあることはとことん追求はして、自分の中の「過程を選択できるレパートリー」を増やすのは確かに楽しいと感じる。結果をないがしろにするわけじゃないけれど、過程が楽しければそれでいいみたいな部分が確かにある。

 

 

 こんな感じに、感想を書いてみた。

 そもそも実行力があまり得意ではない自分がこのようなことをブログにしているのかといえば、多分、自分の考えを何かの媒体に書き写すこと自体が楽しいからなのかもしれない。もちろん、多くの人に読んでもらえたら嬉しいけれど、自分の考えを、何かの媒体に記憶しておくのは、そんなに悪い気がしない。

 

 結果的に、これをどうやって活かすのか? ということになるんだけど、これもまた長くなりそうなので、後日書きたいと思います。

 じゃあ、みんなもストレングス・ファインダーを、やろうね!(強制)

前回の続き

 前回のブログで絶望はそんなんじゃない、とイキってブログを書いたような気がするけれど、そんなことは気にせず続きを書きます。

 

 そもそも絶望って何でしょうね。もっといえば真の絶望ってなんだろう? って個人的には思います。

 多額の借金を背負うことでしょうか? 人から批判されまくることでしょうか?

 理不尽なことが立て続けに起こることでしょうか? 大切な人を失うことでしょうか?

 それらがもし絶望と呼べるのならば、この世は絶望しかないんじゃないか? と思うくらいに全人類が憂鬱になっているかと思う。もし、仮にそのような世界になっているのであれば、「首吊り専用のロープ」が398円で売られている世界になっていると僕は思う。

 ただ自分が思うに、絶望とは「所詮、個の人間が抱いている思想の一つでしかない」と思うのです。

 物書きしている時に、消しゴムが机の上から落ちた時に「絶望」と感じることもできるし。外出している最中に大雨が降ってきてずぶ濡れになったことに「絶望」することも思考できるような気がします。

 結局のところ、人の捉え方で絶望なのか、そうでないのか、そう解釈できるものが個人的に「絶望」だと思うのです。

 「はぁ? 自分の愛する人を失った悲しみと、消しゴム如き一緒にするな!」と言われそうですが、何も同じとは言いません。前者の方が明らかに心理的なショックは大きいでしょうし、私生活に大きな損害を与えることは確かでしょう。

 ただ、絶望とは「大きい」とか「小さい」とか、そういった概念が無い気がするんです。個人的に。同時に「真」の絶望とか、「不変かつ、絶対的な絶望」もない気がします。それらを説明するには、まず個の感情じゃなく、人間という概念そのものを全て理解しないと解決できない問題だと思います。

 仮に、100歩譲って「真の絶望がある!」とすれば、それは圧倒的な希望の中に、ひっそりと存在する、なんとも不確で、愚かな、でも神々しいような、そういった矛盾の中に潜んでいるんじゃないかと私は思っています。

 どういった理由なのかと言われれば、何とも返答に困る質問になるのですが、

たかが、人間が思考できる、或いは理解できるほど「絶望」という概念は浅くないかと直感で、そう思うのです。23世紀くらいになれば、そういった概念の説明ができる人が居るかもしれませんが。

 

 前回ブログで取り上げた「鬱男の恋」についてなのですが、これも明らかに「絶望」しかないゲームです。

 そう、私が「違和感」を感じていたのは、この絶望しかない部分なんです。

 作者様は自分が感じている「絶望」や「救いようのない【自分の世界」を表現しているのですが、これはなんというか、絶望的であるけれど、絶望とは違う何かに感じるんです。

 上記で述べたように真の絶望が存在するのであれば、ひっそりと存在する、なんとも不確かで、愚かな、でも神々しいような、そういった矛盾の中に存在するものだと私個人としては思っています。

 なので、このゲームに出てくる鬱男はあまりにも「完璧すぎるくらいの絶望」を味わっていることに、僕は違和感を覚えます。

 何度も繰り返すようですが、圧倒的な、それこそ絶対的な絶望があったとしても、たかが人間が思考した、定義した「絶望」が本当の「絶望」なのか? ということに繋がります。

 一応、このゲームにヒロイン的な立ち位置の女の子がいますが、それはこの作者様にとっては「希望」の象徴であり、或いは「絶望をより感じやすくするための、一種のスパイス」でしかない物、なのかも知れません。

 最低なことをしているDQNも、罵声を浴びせるクラスメイトも、本質的には人間には変わらない。仮に主人公以外の人間が今「幸せ」と感じていようが、一日後、百日後、千日後、どうなっているかなんてわからない。見事無残な姿で息絶えているかも知れないし、あのDQNたちはどこかで救いようのない環境に死ぬまで居続けるかもしれない。

 いろんな「可能性」があると個人的に思います。この可能性があるゆえに、私は真の絶望も存在しないと思うのです。

 レイプされた女の子が、これからもずっとトラウマを抱えて生きて死ぬまで辛い思いをしないとダメなのか? といえば、それはNOでもあり、YESでもあると個人的には思います。それは鬱男も同じです、両親をなくし、結局のところ、自分は弱いままだと生き続けるのも、それはNOであり、YESでもあるのが「可能性」であり、「現実」であり、それが「人生」のような気がします。

 確かに、辛いトラウマを抱えていない人間は、トラウマを持っている人間よりも「幸せ」だと思うかもしれないですが、それはあくまで「現状」という時間の一部、鱗片を見ているに過ぎないと思うのです。

 何の苦労もせず、他人に対して非人道的なことを繰り返して満足感を得ている人間だろうが、辛い思いを経験していて生きるのも精一杯な人間だろうが、結局のところ、「人間」という存在でしかなく、死ぬときはあっさりと、或いは痛々しく地獄のような痛みを受けながら死んでいく生き物であると私は思います。

 よく辛い経験をした方が「得」とか「強い人間であるとか」そういった類のことを発言する大人がいますが、個人的にはそんなことはないと思います。

 辛い経験は「辛い経験」でしかないのです。そうではなく、その「経験を自分の中でどう解釈」するか? というのが重要でないのかと私は思います。

 虐待を受けた子どもが「他人よりも心が強い人間だ」という証明がどこにあるんでしょうか? 「他人よりも大人を疑心暗鬼になってしまった」という証明がどこにあるんでしょうか?

 所詮は、そのレッテルを張っているのは周りの大人か同じ年代の子であり、当の本人である人格を決定づけするような「信憑性のある、絶対的なもの」とは到底思えません。

 いじめを受けた、虐待をうけた、パワハラを受けた。

 確かにどれも辛いことで、誰だって経験はしたくありません。少なくとも私はそう思います。

 だけど、生きている以上、「痛み」を感じる必要があり、それらは決して避けられません。

 だからといって「過去のトラウマ=今の自分」と決定するのは、早計過ぎるというか、愚かな選択肢のような感覚になります。アインシュタインだって、そのようなことは思わないでしょう。多分。

 

 私、個人としては「痛み」は「痛み」でしかないと思います。

 痛み=今の自分のダメさ、とか。

 痛み=自分の不甲斐なさを実感するためのもの、とか。

 痛み=自分の無力の現れ、とか。

 そういった所謂「イコール」ではなく、今の自分は「今の自分」でしかないと思うのです。今の自分が生きている以上、可能性というのが少なからず存在しているものであり、その可能性を感じるがゆえに、人は無駄に絶望して、無駄に希望を感じるものだと――私は思います。

 

 めちゃくちゃ長文になりましたが、私は現実世界の「いじめ」に関することも、「鬱男の恋」の主人公である鬱男の絶望も、私は人間が生きていく中で避けられない感情の一部に過ぎないと思っています。

 仮に私が鬱男だったら、いじめているDQNの目玉に自分が持っていた傘を全体重をかけてねじ込んでやろうかという気になるだろうなぁと思うし、罵倒してくる女子に対してはそいつが着席している机の上でオ〇ニーして、ベタベタの机を完成させてやろうかと考えてしまう。……実際にやったら犯罪で非人道的ではありますが、彼らも彼らで、彼女らも彼女らですからね、正しいとか正しくないとかは私的には二の次――――と言いたいですが、これ以上はサイコパスな思想があることを露呈しているようで、書くのをやめます。仮に、自分の身に、このような現実が起こったら、「自分のダメさ、無力さ、さえも武器にして戦う」かと思います。その方が私的に「楽しい」と感じるからです。私の価値観の上位には必ず「自分が楽しい」と感じるか否かがあります。

 

 

 ともまぁ、我ながら酷い文章を書いたもんだと悪い意味で自画自賛しそうですが、最後に、現在進行形でいじめられている子に一言述べるとすれば、

 イジメている人間はそれほど強くないし、たかが人間である。

 イジメを受けている自分はそれほど弱くないし、たかが人間である。

 人間である以上、深く考えて行動できるし、同時にあっけないことで弱くなったり、死んでしまう生き物である。

 だから、決して自分をダメだと思いこまなくていい、だからこそ、なんでも良いからどんなに小さくてもいいから、「動いて」欲しい。

 私はそう心から思うし、辛い思いをしている子が少しでも、心が楽に、人生が楽に、なる方向に向いてほしいと思っています。

 

 

 

 

 

 

いじめ

 Youtubeで「いじめ」に関することで投稿者がコメントを長々と書いていた。

何というか、そのコメントから凄まじい怒りを感じたわけだけど、非常に強い価値観の押し付けのようにも感じた。

 「いじめは絶対に悪だ!」「いじめをする奴は人間の屑だ!」的な思想を持っていた人だったんだけど、その人はあまりに強い憎悪の感情だったためか、ちょっと内容が過激にも感じる。

 

 個人的な意見として、「いじめ」は人間という存在が消えない限りは無くならないと思う。もっと突き詰めて言うと「争い」は無くならないと思う。

 「はぁ? じゃあイジメを容認しろっていうのか!」と言ってきそうな意見だけど、別に自分は容認しろとは思っていない。無論、「いじめ」なんて双方何の得にもならないことだと思う。

 ただ自分が疑問に思うのが、現代社会の中で「不正」や「パワハラ」、「セクハラ」「モラハラ」「村八分」みたいなことをしている大人たちが子どもたちに向けて

「いじめは悪い!」「いじめをする奴は最低な野郎だ!」と発言するのは、どうなんだろうと疑問に思う。

 人に迷惑をかけている人間が「人に迷惑かけるな!」と言っているような感覚になる。

全員が全員、現在進行形で大人たちが「いじめ」を行っていないとは思うけれど、ただそのような発言だけで「いじめ」が解消されるとは自分は到底思えない。

 「Twitterとかで○○のようないじめが発生している! と発言すれば世間の皆にバズられて、それで事が大きくなれば変わる!」と思う人もいるだろうけれど、根本的な解決にはならないと思う。抑止力にはなると思うけど、ただ「いじめが消えてなくなる」ってことは無いと個人的に思う。

 仮にそこで解決したとしても、いじめを受けている子どもが「中学」「高校」「大学」と進学した先で同じようないじめに合わない保証なんてどこにもない。

 「じゃあどうすればいいんだよ!」って当然なる。

 個人的にそれらを解決する手段っていうのは三つあると思う。

 一つは、いじめている人間が少数ないし一人の場合は「それよりも多くの人間を味方につける」というもの。そもそもいじめる人間の特徴として、いじめるということに慣れても、いじめられること、自分が追いつめられることに慣れてない場合が殆どだから、自分よりも強い人間や数が多くなればなるほどアホらしいほど、弱々しい態度を取ることが多い。

 でも、この手段は殆どの、いじめられる人にとっては「辛い行動の一つ」であって、「非常に勇気」がある行動だと思う。自分もいじめられた経験があるけれど、「もしかして、分かってもらえないんじゃないか?」とか「どうせ言ったところで変わらない……」とネガティブになる場合が大半を占めるかと思う。

 というか、実際いじめられている人にとっては「そんな簡単に他人を味方につけることが出来たら苦労はしねぇよ!」と怒り狂う問題でもある。

 二つめは、「自分を攻撃しても、貴方には不利益になるんですよ」という風な状況を作る。これは上記の項目と多少似ている部分があるのだけれど、自分が攻撃された場合、いじめた側が何か困るようなこと(学校内であれば、目上の先輩や先生に呼び出されて説教を食らう状況)等を相手に伝えれば、恐らく、いじめは抑制できるとは思う。

 ただ、これも上記に書いた通り、「自分の周りには誰一人仲間がいないし、相談できる人もいないから、自分には無理!」と感じてしまうからこれも正直、難しい。

 じゃあ、三つめは何か? というと、「撤退する」ことだ。

 そんなわざわざ自分に対してあからさまに敵意を感じている人間の巣窟なんて、行かなくても良いと個人的には思う。

 不登校は良くないとか、いじめられても学校に行かないと「負け」なんだ! とか

そんなことを言っている非常に愚かで頭がハッピーセットな大人がいたりもするけれど、よくよく考えて欲しい。学校に行くのは、他ならぬ本人だ。その子の親が代わりに学校へ行くわけにはいかないし、心優しい誰かが代役として出席することは出来ない。

 別に学校なんていかなくてもいい、と自分は思う。

 学歴を、或いは学業を疎かにして良いというわけじゃなく、本質的な話として、

人間が生きていくために必要なのは社会の中で、自立して生きていくことが大事であって。「いじめに対抗できる力を備える」ことでも「いじめに耐え抜く力を養う」ことでもないと個人的に思う。

 東大卒だろうが、中卒だろうが、人生における幸せや楽しさというのはイコールではないということ。

 「いやいやいや、高学歴、高身長で、イケメンなら絶対楽しいでしょ?」と、そのような価値観を持っている人もいるとは思う。だけど、ハッキリ言ってそれはハエが集った生ゴミのような【非常にくだらない】価値観のように僕は思える。

 高学歴とか高身長とか、顔が良くてコミュニケーション抜群とか、そういったものに強い魅力を感じていて、それらを絶対的な価値観に置いている人間は、将来、それらの価値観に押しつぶされてしまうのが目に見えている。

 確かに、それらを持てば「いい人生、いい生活、いい人間関係」を築ける可能性が高いだろうけれど、それらは本質的な問題じゃない。もっといえば、それらは所詮は人間が勝手に抱いている妄想で、一つのツールでしかない。

 自分よりも弱い人間を見て「やっぱり、俺の方が上じゃないか!」と安堵している人間は、自分からすれば「ほら、あの赤ん坊よりも俺は体がデカいし、知能が優れている! やっぱり俺はすごい」と大きな声で人前で叫んでいる人間を見ているようで、正直、吐き気がする。と、いうか尊敬に値する。比較の中でしか生きられない人間は、人間とはかけ離れた肉の塊なんだなぁって思う。

 

 

 なんか、途中でおかしな話になったけれど。ただ、これだけは言えることがある。

もし、いじめられている子がこのブログを何等かの拍子で見ているのならば、これだけは真実であるということを言いたい。

 【所詮、いじめられている自分も、いじめているクソ野郎も、

                    生物学的には同じ「人間」だ】

 人間なんて、胸にナイフを突き立てられた後に、ゆっくりと数センチほど押し込めばそのまま死んでしまう存在なんだ。

 頭を金属バットで何度も何度も殴打すれば、それだけでダメになるのが「人間」だ。

 首を1分以上強く締め付けてしまえば、それだけで簡単な呼吸すら出来ないのが「人間」だ。

 「マルドゥックスクランブル」の小説の中でボイルドが「人間は数ミリの弾丸で死ぬ生き物だ」的なことを言っていたけれど、まさにその通りだ。

 人間は思っているほど、人間は強い生き物じゃない。

 いじめている人間は、所詮、弱い人間で、ちょっとの拍子であっさりと死んでしまう愚かな存在である。

 そして、いじめられている自分は決して存在価値が無いわけではなく、勝手に「自分を無能であり、無力である」と自己暗示かけているに過ぎない。

 そもそも無能だとか無力だとか、何もできないダメ人間などはこの世に存在しないと僕は思う。もし、仮にそんな人間が世の中に萬栄しているのであれば、犯罪なんて起きないでしょう。数センチのナイフを持てる握力さえあれば、もしくは他人を突飛ばせるくらいの力があれば、事件なんて発生しない。

 

 これだけ書くとなんか子供に犯罪を助長しているような記事になってしまって、この記事が抹消されそうな感が否めないけれど、自分が言いたいのはそういったことじゃない。

 「人間はどのような権力や地位や名誉を持ったところで、弱い生き物であることは変わりない」ということだ。

 偉そうな態度を振り回している中年オヤジも、生意気な発言を繰り返している若者も、人生をすべて知っているかのような老人も。

 どのような人間であれ、生物であれ、ちょっとした拍子で「死ぬ」のが人間だ。

 

 そんな人間に対して、「自分は果たして何もできない人間なのか?」と胸に手を当てて考えてほしい。決して、そうじゃないはず。

 その気になれば、大きな声で助けを呼ぶこともできるし、イジメている連中に対して自分の感情をぶちまけることもできる。学校なんて行かなくてもいいし、引きこもってもいい。学校に行かなくても、楽しく生きられている人間なんて世界規模で見れば何万何千万人といるわけだから、あなただけが異端者というわけじゃない。

 どのような選択肢を決定しようが、何しようが、それは貴方の意志であり、それも一つの「力」であることを感じてほしい。

 もう一度書くが、決していじめられているあなたは無力ではない、それでも無力だと思うのならば「この状況をどうにかしたい」「楽になりたい」という考えには決して行き着かないはずである。何故なら、そういった「打破」したいという意思があるから。

別に逃げてもいい、逃げるのも一つの選択肢であり、意志の「力」だ。

 

 つまり何が言いたいかといえば、貴方は紛れもなく「人間」だということ。

 身体的に差があろうと、精神的なタフがあろうとなかろうと、そんなことは全くの因果関係が無い。紛れもなく貴方は「人間」だ。

 人間である以上、「自分の未来を選択できる力がある」。意志という「力」がある。

 力がある以上、貴方は「変える」ということが出来る。それを忘れないでほしい、と思う。

 何度も繰り返すようだけど、いじめている阿呆な人間も、所詮はただの人間である。別にそいつらが特別優秀でもなければ、永久的に存在価値が高いわけでもない。むしろ、貴方より存在するに値しない可能性だってある。

 そんな阿呆な連中に自分が合わせる必要性もないし、自分の身を削るような行為をする義務もない。

 たかが、数ミリの弾薬で死ぬ愚かな人間に。

 たかが、数センチのナイフを胸に差し込むだけで死ぬ弱い人間に。

 そのような愚かな人間に、貴方が苦しめられる必要性はゼロだ。

 かといって、実際にナイフを突き立てるのは人道的にも、法律的にもアウトだ。

 だからこそ、貴方はどうするか考えなきゃいけない、行動しないといけない。

 それに必要なのが「意志」の「力」だと僕は思う。

 

 長々と書いたけど、なんとういうか一部の過激派の人に思いっきり批判されそうな内容の文章だとは思っている。「死ね!」とか「偽善者!」とか言われるかも知れないけれど、そういわれたところで僕はどうにもできないし、決して死ぬわけにはいかない。……これから見たいアニメとかあるし、やりたいことがあるし。

でも、人生の真理だとか、人生の幸せとか、正しい人生って恐らく人類が滅びても分からないことだと思う。

 僕が書いているこの記事だって、実際、間違っているかもしれない。

 でも間違っているか、正しいか、なんて本質的なことじゃないとは思う。

 

 こんな記事を書いた理由としてYoutubeで「鬱男の恋」というゲームのプレイ動画を見たからだ(※精神的に不安定な人は【決して】見ないこと)。

 なんというか、胸糞悪い話――――ではあるんだけど、同時に作者の世界観が忠実に再現されている素晴らしい作品であり、尊い作品だと僕は思っている。……こんなこというと、批判されるだろうけれど。僕は正直な意見として、そう思っている。

 ただ、一つだけ。その作者様に言いたいことがあれば、「あなたは【正しい】けれど、勘違いしている」と言いたい。

 そのことについては、また後日書く……と思うけど。

 この作者様は恐らく「自分がコイントスで【表】を望んでいるのに、92回くらいは【裏】が出てくるんだ、きっとそうに違いない」という脳内になっていると勝手に僕は想像している。或いは、自分はどうあがいても絶対に無理、無理無理無理、と責め続けている状態か。

 作者様の心境や今までの環境を完璧に知っていない自分がこんなことを書くと「何様だ!」と言われそうだけれど、僕はこの作者様の世界観に違和感を感じる。

 確かに、絶望だ。絶望でしかない。絶望しかない。絶望のみしか許されない。

 

 だけど、それは【絶望と感じれる、絶望にしか過ぎない】、と僕は思う。

 

何を言っているか訳が分からないと思うけれど、僕の率直な感想はそれなのだ。

 あー……なんか、長くなりそうなので、また後日この記事は書きます。

中庸

Q,てめー何してんだー!?(半ギレ)

A,(特に何もして)ないです。

 

すっごい久しぶりに、ブログ更新します。

ブログ更新する気が無かった――という、訳じゃなく、更新するほどの出来事が他になかったのが本音。

ただ、このブログを見ている同じHSPの方が「こんな自分よりダメな人間がいるんだ! 自分なんてまだマシじゃないか!」と思ってもらえれば、個人的には嬉しい。

そのために書いているといってもいい。卑屈な感情でそう言っているわけではなく、ただ何となく。そうなれば良いと思う。

……ただ前に書いた時から二か月くらい時間が経過しているけれど。

 

未だに仕事についていないけれど、サポートセンターに通っている。

正直、今まで同じ仕事を5年以上続けたことがないから、不安な気持ちに押しつぶされそうにもなる。また就職しても、続かなかったらどうしよう? という風な感じで。

 

自分が歳を取らなかったら、そんな風な気持ちにはならないだろうけれど。

人間は何もしなくても、歳を取るし、歳を取った分だけ色々な弊害が出てくる。

自分は三十代だけど、世間様から見ればもう中年オヤジだからね。仕方ないね。

 

この二か月で色々と考え事をした。あと運動もほぼ毎日欠かさずやっている。

もし、このブログを見ている絶賛引きこもりで、ニートで、無職な人がいるならば、これだけは言っときたいと思った。

「何事も卑屈になりすぎるのは良くないし、傲慢になっても良くない」

詳しくは「中庸」という言葉をググってほしいと思う。そこに自分の言いたいことが書いてあるから(丸投げ

 

CIVをやり始めてブログも書き忘れる

   CIV5買ってから一年くらい経って、全然やってなかったので、ちょろっとやってみようと思った矢先に結構ハマってた。ブログも書き忘れてしまうくらい。

 面白いといえば面白いけれど、それよりも適度なランダム性と適切な戦略が求められるゲームだから勝利への定石が確定的ではないゲーム。いや、一応定石はあるけれど、それは戦略じゃなくて戦術みたいなもので、その場の対処は出来ても、勝利できるかは本当に自分の頭の中でひねり出してプレイする感じだった。

 それがハマる感じなのかもしれない。CIV廃人が増える理由もわかるような気がした。ただ唯一残念なのはAIが馬鹿なくらいか。馬鹿というか、所謂テンプレートな行動しかとらないから、こっちはそれに合わせて動けばいい話でこれは覚えれば誰でも出来るような気がする。(宣戦されそうな時に、他の国に宣戦依頼をするとか)

 CIVは現実世界の縮図だ。まず、嫌われる国(人)を見つけて、因縁をつけて

みんなで寄ってたかって叩いて、如何に自分が出し抜くかのゲーム。

 善人面をどこまで貫いて、我儘な欲求を誰にも悟られずに行うか。それが所謂、勝利への近道なんだろう。

 CIVやったことある人ならわかるけれど、このゲームは一回躓くと立て直しが相当な強運が無い限り盛り返すのは不可能に近い。低難易度ならともかく、高難易度ならリセットするレベル。

 人生も叱り、一度何か問題を起こしたり、圧倒的な理不尽な目にあったら、その人の人生は狂ってしまう――と思う。

 ただ人生はCIVと違って何が起こるか本当にわからない。初代CIVでガンジーがいきなりアンダーフロー起こして核ミサイルを撃ちまくるバグがあるように、予測できない人生だから。今が苦しくても、次のターンに何が起きるか分からない。

パプリカ

 昨晩、変な夢を見た。

 霧が掛かった国道。誰一人居ないし、車も無い。

そんな中、自分は車に乗っていた。助手席にはそんなに親しくない女友達を乗せてる。

なんでこんな状況なのか不思議と思わないまま、自分は車のアクセルをゆっくり踏んで走行する。

 と、その時。目の前を走っていた国道に大量のねこが――くつろいでいた。

隣にいる女友達は「かわいい~」と言った。うん、確かに可愛い。可愛いけれど、このままだとねこが車の下敷きになって大惨事になるので、自分は車から降りる。

 降りた自分は一匹一匹丁寧にその猫を拾い上げて、安全な場所へ避難させる。

デブねこもいた。女友達は「デブねこ可愛い~」と言った。うん、可愛い、俺もデブねこ好きだけど、今はそういった感想を述べている場合じゃない。とりあえず、避難させなきゃ。

 せっせと自分はねこを避難させる。にゃーにゃーと鳴くこともなく、されるがままに移動させられるねこ。「なんの作業だ、これは?」と自分は心の中で思いながらも、ねこたちを安全な場所へ。

 ねこの色は様々だった。ただなんとなく白と茶色が混じったねこが多かった気がした。すると、何故かねこの中にコーギーがいた。犬だ。自分は紛らわしいそのコーギーの毛の色にちょっとビックリしていた。今思えば驚くのはそこじゃないと思うけれど。

 とりあえず、ふりふりとしたそのお尻が特徴のコーギーも担いで、避難させる。

犬も大人しく、吠える様子もなかった。そして、ようやくねこと犬を両方避難させることが出来た。

 そしてまた自分は車に乗る。それからアクセルをゆっくりと踏む。

 だけど、また――大量のねこと犬が現れる。助手席にいる女友達は「かわいいー」とまたしても言った。

 どうしようか、と真剣に自分が考えているとそこで夢がさめた。

 

 なんだこの夢。

 目が覚めても、夢の内容がはっきりと覚えているから、なんだか変な気分になる。

それでいて、パプリカを思い出した。映画の。

 映画では「思い知るがいいッ! 三角定規のたちの肝臓を!」とか言っていたけれど、自分の場合は「思い知るがいいッ! ねこたちの国道を!」って叫びながら、窓ガラスに突っ込んでそのまま木に引っかからずに死にそう。てか、死ぬ。