誇大妄想をするHSPの戯言

HSP/HSSである中年男性が妄想をひたすらに書きなぐる落書き場

いじめ

 Youtubeで「いじめ」に関することで投稿者がコメントを長々と書いていた。

何というか、そのコメントから凄まじい怒りを感じたわけだけど、非常に強い価値観の押し付けのようにも感じた。

 「いじめは絶対に悪だ!」「いじめをする奴は人間の屑だ!」的な思想を持っていた人だったんだけど、その人はあまりに強い憎悪の感情だったためか、ちょっと内容が過激にも感じる。

 

 個人的な意見として、「いじめ」は人間という存在が消えない限りは無くならないと思う。もっと突き詰めて言うと「争い」は無くならないと思う。

 「はぁ? じゃあイジメを容認しろっていうのか!」と言ってきそうな意見だけど、別に自分は容認しろとは思っていない。無論、「いじめ」なんて双方何の得にもならないことだと思う。

 ただ自分が疑問に思うのが、現代社会の中で「不正」や「パワハラ」、「セクハラ」「モラハラ」「村八分」みたいなことをしている大人たちが子どもたちに向けて

「いじめは悪い!」「いじめをする奴は最低な野郎だ!」と発言するのは、どうなんだろうと疑問に思う。

 人に迷惑をかけている人間が「人に迷惑かけるな!」と言っているような感覚になる。

全員が全員、現在進行形で大人たちが「いじめ」を行っていないとは思うけれど、ただそのような発言だけで「いじめ」が解消されるとは自分は到底思えない。

 「Twitterとかで○○のようないじめが発生している! と発言すれば世間の皆にバズられて、それで事が大きくなれば変わる!」と思う人もいるだろうけれど、根本的な解決にはならないと思う。抑止力にはなると思うけど、ただ「いじめが消えてなくなる」ってことは無いと個人的に思う。

 仮にそこで解決したとしても、いじめを受けている子どもが「中学」「高校」「大学」と進学した先で同じようないじめに合わない保証なんてどこにもない。

 「じゃあどうすればいいんだよ!」って当然なる。

 個人的にそれらを解決する手段っていうのは三つあると思う。

 一つは、いじめている人間が少数ないし一人の場合は「それよりも多くの人間を味方につける」というもの。そもそもいじめる人間の特徴として、いじめるということに慣れても、いじめられること、自分が追いつめられることに慣れてない場合が殆どだから、自分よりも強い人間や数が多くなればなるほどアホらしいほど、弱々しい態度を取ることが多い。

 でも、この手段は殆どの、いじめられる人にとっては「辛い行動の一つ」であって、「非常に勇気」がある行動だと思う。自分もいじめられた経験があるけれど、「もしかして、分かってもらえないんじゃないか?」とか「どうせ言ったところで変わらない……」とネガティブになる場合が大半を占めるかと思う。

 というか、実際いじめられている人にとっては「そんな簡単に他人を味方につけることが出来たら苦労はしねぇよ!」と怒り狂う問題でもある。

 二つめは、「自分を攻撃しても、貴方には不利益になるんですよ」という風な状況を作る。これは上記の項目と多少似ている部分があるのだけれど、自分が攻撃された場合、いじめた側が何か困るようなこと(学校内であれば、目上の先輩や先生に呼び出されて説教を食らう状況)等を相手に伝えれば、恐らく、いじめは抑制できるとは思う。

 ただ、これも上記に書いた通り、「自分の周りには誰一人仲間がいないし、相談できる人もいないから、自分には無理!」と感じてしまうからこれも正直、難しい。

 じゃあ、三つめは何か? というと、「撤退する」ことだ。

 そんなわざわざ自分に対してあからさまに敵意を感じている人間の巣窟なんて、行かなくても良いと個人的には思う。

 不登校は良くないとか、いじめられても学校に行かないと「負け」なんだ! とか

そんなことを言っている非常に愚かで頭がハッピーセットな大人がいたりもするけれど、よくよく考えて欲しい。学校に行くのは、他ならぬ本人だ。その子の親が代わりに学校へ行くわけにはいかないし、心優しい誰かが代役として出席することは出来ない。

 別に学校なんていかなくてもいい、と自分は思う。

 学歴を、或いは学業を疎かにして良いというわけじゃなく、本質的な話として、

人間が生きていくために必要なのは社会の中で、自立して生きていくことが大事であって。「いじめに対抗できる力を備える」ことでも「いじめに耐え抜く力を養う」ことでもないと個人的に思う。

 東大卒だろうが、中卒だろうが、人生における幸せや楽しさというのはイコールではないということ。

 「いやいやいや、高学歴、高身長で、イケメンなら絶対楽しいでしょ?」と、そのような価値観を持っている人もいるとは思う。だけど、ハッキリ言ってそれはハエが集った生ゴミのような【非常にくだらない】価値観のように僕は思える。

 高学歴とか高身長とか、顔が良くてコミュニケーション抜群とか、そういったものに強い魅力を感じていて、それらを絶対的な価値観に置いている人間は、将来、それらの価値観に押しつぶされてしまうのが目に見えている。

 確かに、それらを持てば「いい人生、いい生活、いい人間関係」を築ける可能性が高いだろうけれど、それらは本質的な問題じゃない。もっといえば、それらは所詮は人間が勝手に抱いている妄想で、一つのツールでしかない。

 自分よりも弱い人間を見て「やっぱり、俺の方が上じゃないか!」と安堵している人間は、自分からすれば「ほら、あの赤ん坊よりも俺は体がデカいし、知能が優れている! やっぱり俺はすごい」と大きな声で人前で叫んでいる人間を見ているようで、正直、吐き気がする。と、いうか尊敬に値する。比較の中でしか生きられない人間は、人間とはかけ離れた肉の塊なんだなぁって思う。

 

 

 なんか、途中でおかしな話になったけれど。ただ、これだけは言えることがある。

もし、いじめられている子がこのブログを何等かの拍子で見ているのならば、これだけは真実であるということを言いたい。

 【所詮、いじめられている自分も、いじめているクソ野郎も、

                    生物学的には同じ「人間」だ】

 人間なんて、胸にナイフを突き立てられた後に、ゆっくりと数センチほど押し込めばそのまま死んでしまう存在なんだ。

 頭を金属バットで何度も何度も殴打すれば、それだけでダメになるのが「人間」だ。

 首を1分以上強く締め付けてしまえば、それだけで簡単な呼吸すら出来ないのが「人間」だ。

 「マルドゥックスクランブル」の小説の中でボイルドが「人間は数ミリの弾丸で死ぬ生き物だ」的なことを言っていたけれど、まさにその通りだ。

 人間は思っているほど、人間は強い生き物じゃない。

 いじめている人間は、所詮、弱い人間で、ちょっとの拍子であっさりと死んでしまう愚かな存在である。

 そして、いじめられている自分は決して存在価値が無いわけではなく、勝手に「自分を無能であり、無力である」と自己暗示かけているに過ぎない。

 そもそも無能だとか無力だとか、何もできないダメ人間などはこの世に存在しないと僕は思う。もし、仮にそんな人間が世の中に萬栄しているのであれば、犯罪なんて起きないでしょう。数センチのナイフを持てる握力さえあれば、もしくは他人を突飛ばせるくらいの力があれば、事件なんて発生しない。

 

 これだけ書くとなんか子供に犯罪を助長しているような記事になってしまって、この記事が抹消されそうな感が否めないけれど、自分が言いたいのはそういったことじゃない。

 「人間はどのような権力や地位や名誉を持ったところで、弱い生き物であることは変わりない」ということだ。

 偉そうな態度を振り回している中年オヤジも、生意気な発言を繰り返している若者も、人生をすべて知っているかのような老人も。

 どのような人間であれ、生物であれ、ちょっとした拍子で「死ぬ」のが人間だ。

 

 そんな人間に対して、「自分は果たして何もできない人間なのか?」と胸に手を当てて考えてほしい。決して、そうじゃないはず。

 その気になれば、大きな声で助けを呼ぶこともできるし、イジメている連中に対して自分の感情をぶちまけることもできる。学校なんて行かなくてもいいし、引きこもってもいい。学校に行かなくても、楽しく生きられている人間なんて世界規模で見れば何万何千万人といるわけだから、あなただけが異端者というわけじゃない。

 どのような選択肢を決定しようが、何しようが、それは貴方の意志であり、それも一つの「力」であることを感じてほしい。

 もう一度書くが、決していじめられているあなたは無力ではない、それでも無力だと思うのならば「この状況をどうにかしたい」「楽になりたい」という考えには決して行き着かないはずである。何故なら、そういった「打破」したいという意思があるから。

別に逃げてもいい、逃げるのも一つの選択肢であり、意志の「力」だ。

 

 つまり何が言いたいかといえば、貴方は紛れもなく「人間」だということ。

 身体的に差があろうと、精神的なタフがあろうとなかろうと、そんなことは全くの因果関係が無い。紛れもなく貴方は「人間」だ。

 人間である以上、「自分の未来を選択できる力がある」。意志という「力」がある。

 力がある以上、貴方は「変える」ということが出来る。それを忘れないでほしい、と思う。

 何度も繰り返すようだけど、いじめている阿呆な人間も、所詮はただの人間である。別にそいつらが特別優秀でもなければ、永久的に存在価値が高いわけでもない。むしろ、貴方より存在するに値しない可能性だってある。

 そんな阿呆な連中に自分が合わせる必要性もないし、自分の身を削るような行為をする義務もない。

 たかが、数ミリの弾薬で死ぬ愚かな人間に。

 たかが、数センチのナイフを胸に差し込むだけで死ぬ弱い人間に。

 そのような愚かな人間に、貴方が苦しめられる必要性はゼロだ。

 かといって、実際にナイフを突き立てるのは人道的にも、法律的にもアウトだ。

 だからこそ、貴方はどうするか考えなきゃいけない、行動しないといけない。

 それに必要なのが「意志」の「力」だと僕は思う。

 

 長々と書いたけど、なんとういうか一部の過激派の人に思いっきり批判されそうな内容の文章だとは思っている。「死ね!」とか「偽善者!」とか言われるかも知れないけれど、そういわれたところで僕はどうにもできないし、決して死ぬわけにはいかない。……これから見たいアニメとかあるし、やりたいことがあるし。

でも、人生の真理だとか、人生の幸せとか、正しい人生って恐らく人類が滅びても分からないことだと思う。

 僕が書いているこの記事だって、実際、間違っているかもしれない。

 でも間違っているか、正しいか、なんて本質的なことじゃないとは思う。

 

 こんな記事を書いた理由としてYoutubeで「鬱男の恋」というゲームのプレイ動画を見たからだ(※精神的に不安定な人は【決して】見ないこと)。

 なんというか、胸糞悪い話――――ではあるんだけど、同時に作者の世界観が忠実に再現されている素晴らしい作品であり、尊い作品だと僕は思っている。……こんなこというと、批判されるだろうけれど。僕は正直な意見として、そう思っている。

 ただ、一つだけ。その作者様に言いたいことがあれば、「あなたは【正しい】けれど、勘違いしている」と言いたい。

 そのことについては、また後日書く……と思うけど。

 この作者様は恐らく「自分がコイントスで【表】を望んでいるのに、92回くらいは【裏】が出てくるんだ、きっとそうに違いない」という脳内になっていると勝手に僕は想像している。或いは、自分はどうあがいても絶対に無理、無理無理無理、と責め続けている状態か。

 作者様の心境や今までの環境を完璧に知っていない自分がこんなことを書くと「何様だ!」と言われそうだけれど、僕はこの作者様の世界観に違和感を感じる。

 確かに、絶望だ。絶望でしかない。絶望しかない。絶望のみしか許されない。

 

 だけど、それは【絶望と感じれる、絶望にしか過ぎない】、と僕は思う。

 

何を言っているか訳が分からないと思うけれど、僕の率直な感想はそれなのだ。

 あー……なんか、長くなりそうなので、また後日この記事は書きます。